学ぶ力は欠けている自覚から

「学ぶ」とは

 勉強が好きではなかった

私は「学ぶ」と言う言葉を

聞く度に違和感を感じ

「別に学ぶために

生きてるわけじゃない」

などと思っていました。

でも今は学ぶと生きるとは

同じことのような気がして

います。「学ぶ」とは

どういうことなのでしょう。

 

前にも引用したフランスの

現代思想を研究している

内田樹氏(神戸女学院大学

教授)はこんなことを

書いています。

氏は大学生の時に初めて

エマニュエル・レヴィナス

(現象学や実存主義、ユダヤ

思想を背景にした独自の

倫理学を展開した人物)の

著作を読んだときに一行も

理解できなかったそうです。

 

●しかし、どこか自分を

惹き付けるものがある。

相手はガラス窓の向こうから

必死に何か語りかけている

のに、いくら耳を傾けても

聞こえない。

そんなもどかしさです。

僕はレヴィナスのことが

わかる人間に成長しようと

決心した。

(●新しい教科書「学び」

「あとがきにかえて」より プチグラパブリッシング)

 

 私も思想家の入門書を

何回か挑戦したことが

あるけれど、著者が

ガラス窓の向こうで必死に

語りかけていることを

感じたことなどありません

でした。頑丈な城に拒否

された感じで、やっぱり

無理だとすごすごと

撤退するばかりでした。

 

●その後、結婚して子どもが

でき、離婚‥‥という経験を

経て、レヴィナスの初めて

わかるようになった部分も

ありますし、武道の稽古の

途中に気づかされることも

多くある。

 

 確かに若い時にわから

なかった、または頭だけの

理解だけだった話が、人生の

体験や日常のできごとを通して

腑に落ちることがよくあります。 

 

●理解できるものを理解する

のではなくて、理解できない

ものを理解できるようになる。

「学び」の本質って、

そういうものだろうと

思うんです。

あることを学んだ瞬間、学ぶ

前の自分と学ぶ後の自分が、

全く違う人間に変化している。

 

 私自身、こんな体験が

あります。知的障害を持つ

息子が普通高校を希望して

いたので、同じ思いを持つ

お母さんたちのグループに

参加しました。

 

初めて参加した行政交渉の

中で先輩のお母さんたちは、

受験点数を理由に入学を

認めない学校や行政に対して

こんな主張をしたのです。

 

「本人が行きたいと望んで

いるのに、なぜ点数が

とれないと拒否するの」。

それまで息子が点数が

取れないことに負い目を

感じていた私はびっくり。

 

「あ、そういう視点が

あってもいいんだ」。

私の中で何かが切り替わり

ました。

数年後、前例がないと入学を

拒否する地域の大学に気の

小さかったはずの私が息子と

ともに自分の思いを強く

伝えていたのです。

気がつくと視点や行動や

価値観までも変わってしまう。

ある意味で、これも「学び」

だったのですね。 

 

●面白いことに人は自分

自身を「学ぶ主体」に

することはできないんですね。

何かを学ぼうというときに、

そこには必ず他者、わかり

やすく言うと「先生」が

必要になってくる。

 

(中略)

僕のとってのレヴィナスが

そうであったように、相手が

一体何を言っているのかが

わからない。

 

けれども、自分にはうかがい

知れない根拠に基づいて

熱心にメッセージを発して

いる。そういう存在が

「先生」であり、また

そういう存在と出会って

初めて、人は「学び」へと

開かれていくのです。

 

 私には理解できないけれど

気になる本や言葉がいくつか

ありますが、残念なことに

内田氏が言うような

「先生」に当たる人とは

まだ出会っていないようです。

 

 

 ●「学び」というのは市場で

行なわれている経済行為とは

違い対価を支払って相応の

商品を得るということでは

ないからです。

 

つまり、学ぶ者が、「自分が

何を求めているかわからない」

ところから始まる。

だから、あなたが「先生」だと

思った人の「すごさ」が

わからなくてもいい。

あらかじめ、その内容が

わかっているのなら、

学ぶ必要はないからです。

 

 

「自分が何を求めているか

わからない」私でしたが、

少なくとも学ぶことは

始まっていたのですね。

 

 

学ぶ力は欠けている自覚から

●「学ぶ力」とは「自分の

無知や非力を自覚できる

こと」、「自分が学ぶべき

ことは何かを先駆的に知る

こと」、「自分を教え導く

はずの人(メンター)を探り

当てることができること」と

いった一連の能力のこと

だからだ。

 

これらの力は成果や達成では

示されない。学ぶ力は

「欠性態」としてのみ存在

する。何かが欠けていると

いう自覚の強度のことを

「学ぶ力」と呼ぶのである。

(ここのみ内田研究室のブログより引用)

 

 

 確かに「学ぶ」ためには

何かが欠けているからこそ

学べるけれど同時にその

自覚も必要なのですね。

そして「学び」のスタートは

自分の求めているものが

はっきりしなくても

「気になる」を感じる

アンテナと、自分の「先生」を

見つけるアンテナが

あればいいらしいです。

 

うーん、内田氏の言うことは

なかなか難しくついていけない

部分がたくさんあるけれど、

「気になる」部分も

たくさんあります。

内田氏も私の「先生」の一人

なのかもしれません。